特権階級化し庶民感覚が欠如…議員の世襲制限は当然だ
特権階級化し庶民感覚が欠如…議員の世襲制限は当然だ
日刊ゲンダイ DIGITAL 2018年6月19日
国会議員の職務の本質は、本来的に利害の対立と矛盾が存在する全国民の間に国家権力を用いて国家の有限な資源を強制的に配分する作業に参加することである。だから、議員を選出するシステムは全ての国民にとって「公平」であることが求められている(憲法14条、44条)。
そういう観点から、特に自民党内に多数存在するいわゆる「世襲」議員が法の下の平等に反するのではないか? と問題にされてきた。それに対して、世襲議員にも参政権はある(憲法15条)し、現に選挙で当選し民主的正当性があるとして、「逆差別」であると反発する向きもある。
しかし、世襲議員が不当な存在であることは明白である。
まず、選挙とは、事実として、莫大な費用と人力が必要な事業である。だから、志と能力はあっても無名の新人が立候補(人権行使)をしようと考えても、落選した場合の経済的・社会的損失を考えたら、容易に立候補できるものではない。その点、世襲議員は、いわゆる「地盤」(集票組織)、「看板」(知名度)、「鞄」(選挙資金)が先祖伝来で揃っており、ほぼ確実に当選できる上に、落選しても生活は守られている。だから、世襲議員は、大きな権力を共有する地位を容易に入手・維持できる特権的な立場にある。つまり、憲法が禁じる「門地」(家柄)による差別(14条、44条)である。
さらに、世襲議員にはもうひとつ本質的な問題がある。それは、世襲議員の「貴族」化である。中世、近代の階級社会の悲惨な体験を経て、人類は、階級のない社会に到達して現在に至っている。人間の平等と民主政治である。そこで、議会は当然に多様な国民各層の公平な縮図でなければならない。ところが、世襲議員は代々の特権階級の中で育った人間になってしまっており、これは公知の事実である。
多くの世襲議員と近くで接して痛感することは、彼らは庶民の感覚が分からない……という致命的な事実である。国民の最大多数の最大幸福を追求すべき議会の構成員の多数が庶民感覚を欠いていては、議会が正しく機能するはずがない。
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